「熊野…かぁ。どうするの?ヒノエ。」
「どうするって…?」
「だって…」
熊野への道すがら、は不安そうに尋ねた。
今回の旅の目的は、中立を守っている熊野を源氏側に引き入れることだった。
九朗の兄源頼朝からの命令が来たのは三草山の戦いが終わってすぐのことだった。
戦で疲れきったときに下ったこの命令は、丁度よい気分転換になると望美たちはとても乗り気だった。
もちろん、九朗などは遊びではないのだからな、と釘を刺しているが、彼女たちが聞いているかは甚だ疑問だ。
今も海だ、山だ、温泉だ、などと騒いでいる。
しかし、本当に楽しそうに歩く彼女たちとは対照的に、の表情は暗い。
いつもだったらあそこに真っ先に加わるだろうヒノエも、今回ばかりは加われずにいる。
この二人にとって、今回の旅は素直に喜べることではなかった。
熊野へ話し合いに行くのだか、会いに行くのは当然熊野の棟梁。
どんな人なんだろうと、望美たちにも聞かれたけれど棟梁について話すことなんてできなかった。
だって、棟梁はヒノエなのだ。
八葉で今までずっと一緒にいたヒノエが熊野の別当だなどと誰がいえようか。
ずっと隠していたこと。
それを悪いとは思わない。
それは必要なことで、そうしなければいけなかったことだったから。
けれど、こうして会いに来る、となると無性に不安になるのだ。
彼女たちに正体がばれるのだと思うと、騙していたのだばれるのが怖い。
「いざとなれば影武者を立てる。弁慶や敦盛には通用しないけど…あいつらなら分かってくれる」
「ヒノエは会う気はないの…?」
「あぁ。そのほうがいいだろうしな。」
ポンッと軽く頭を叩かれて上を向くとヒノエは別当としての顔をしていた。
すっと細められた目は望美たちを見ている。
もちろん視線を悟られないようにはしていたが、それは彼女たちを見極めている目だった。
「今のところ源氏につく気はないってこと…?」
ヒノエが会わない。
それが示すのは一つの回答だけ。
もしも源氏につくというのなら別当が代理を立てるわけがない。
共に戦う仲間として、嘘偽りなく会うはずだ。
「今のところはね。たとえ熊野がついたところで源氏が必ず勝てるとは限らない。
熊野は勝てる戦しかしないよ。」
「そっか…。ヒノエがどんな決断を下しても、誰も文句なんていわないよ。
じっくり見極めて、ヒノエの思うように決めてね。」
今のところは。
つまり、これからはどうなるか分からないということだ。
彼女たちの行動しだいでは判決は覆る。
どちらにしろ、決めるのはヒノエだ。
源氏につくか、はたまた平家につくか。
このまま中立を守り続けるのか。
熊野のこれからを左右するその決断を、ヒノエは下さなくてはならない。
逃げることはできない。
だからこそ、慎重に。
そのときの心情だけで判断してはいけない。
だって、彼は熊野の別当だから。
たとえ仲間を裏切ることになっても、それでも熊野の為に…
「ま、今はいろいろ考えてても仕方ないよね。まだ判断材料は揃いきってないもの。」
「そういうこと。今できることは…神子姫たちに熊野を案内することかな。」
熊野との境、ここを一歩越えればそこはヒノエの守るべき場所だ。
彼が背負う場所。
だけど、今はまだ…
あと少しだけはヒノエでいさせて欲しかった。
不敵に浮かべるその笑みが、なくなってしまわないように。
はただ側にいることしか出来なかった。
***
「ねぇねぇ!温泉入らない?」
宿で一休みしている一行には元気よく尋ねた。
このすぐ近くにある温泉。
龍神温泉へのお誘いだ。
ずいぶんと歩き通しだったためみんな疲れがたまっている。
温泉に入ればすこしは疲れも取れるだろうと思ったのだ。
「わー行く行く!もーくったくただもん。温泉でリフレッシュしたーい」
「そうね。温泉で疲れを取るのもいいわね。」
「じゃ、行こ!」
望美と朔の返答をきくやいなや、は二人の手を引いて走り出した。
その後ろをあわててついてくる男性陣の気配を感じながら、それでも速度を緩めずに進んだ。
「龍神温泉かぁ…なんかすごい名前だよね。」
温泉につかりながら望美がしみじみとつぶやいた。
自分たちと縁のある名前に、思わず微笑が浮かぶ。
「ここはとても気が澄んでいるから、落ち着けるよ」
トロンとした表情でヘリの石にもたれるを朔は微笑ましそうに見ていたが寝てはダメよ、と釘もさす。
このまま寝てしまってもおかしくない様子だったのだ。
「ん、わかってるよ」
「それはそうと…ねぇ、望美、あなた気になる人はいるの?」
「ぶっ!ちょ、さ、朔?!いきなり何?」
いきなり恋愛話をふられて望美はおもいっきり噴出した。
まさか朔からそんな話題がでてくるとは思わなかったのだ。
「だって気になるじゃない?ねぇ、。」
「?んー…よくわからな くないです。とっても気になるよ、望美!」
朔からの無言の圧力を感じては意見を変える。
気にならないとは言わせてもらえない状況だった。
いくら龍神とはいえ、朔の眼力には勝てなかった。
「誰なの?」
「え、っと…その… 青龍の二人はちょっと気になってるの」
朔の押しに負けた望美は恥ずかしそうに顔を赤く染めながらもおずおずと答えた。
それを聞いて朔は一瞬驚いたような、それでいて納得したような表情を見せる。
そしてまるで母か姉かのようにふんわりと微笑んだ。
「そう、あの二人なのね…。ふふっ。やっぱり幼馴染と婚約者は気になるってことかしら」
「って、幼馴染はともかく、婚約者は嘘だよ!あれはただ…」
「分かっているわ。でも…あながち嘘でもないような気もするのだけれどね」
後半は望美には聞こえなかったのか彼女は首をかしげていたけれど、何を言ったのか問い詰める期は起こらなかったらしい。
というより、人のことを話すのは好きだが、自分が突っ込まれるのはやっぱり恥ずかしく、早く話題を変えたがった。
朔もこれ以上突っ込むと望美が意固地になる可能性があるため、あっさりとおわらせた。
次の矛先は当然…。
「は?やっぱりヒノエくん?」
「あら、ヒノエ殿はあまり…女性の敵ですもの。」
「うーん…でもやっぱりヒノエくんとってこうなんか入り込めない絆があるっていうかさー」
最初こそ聞いてきた二人だったが、いつの間にか二人で勝手に議論を繰り広げている。
白熱したその状況に、は口出しすることはできなかった。
“気になるってどういうことなのか聞きたかったのになぁ…”
とても聞ける状況じゃなくて、はため息を一つもらすとすくっと立ち上がる。
そして外でまっているから、と一言言い残すと二人を置いて外へ出た。
***
「!」
外にでると、そこには男性陣が勢ぞろいしていた。
待っていたのか、と聞くと、今出てきたところなのだといわれた。
たしかにまだ皆顔を赤らめていて温かそうにしている。
「それにしても望美と朔はまだなのか?」
「うん。一応声はかけてきたけど、まだあがる気配なかったよ」
もっともの言葉が届いていたかさえわからないが。
なにせ着替えている最中も、ずっと中から二人の白熱した声が聞こえ続けていたのだから…
「そうか…」
「なんだか待っていると湯冷めしそうだな。」
「確かにそうだけど、二人をおいていくわけにもいかないしね」
「そうですね。それに…ふふ、ずいぶんと素晴らしい談義を繰り広げているようですしね」
仕方ないでしょう、という弁慶の顔の端になにか面白いものでも見るようなものが混じっていた。
その視線の先にはヒノエと。
は不思議そうに弁慶を見たが、ヒノエは頬を引きつらせて視線を弁慶からはずした。
「?なんで素晴らしいって分かるの?」
「男湯、隣ですから。会話はよほど小声でないかぎり筒抜けですよ。」
「ふーん…全然気づかなかったなぁ。望美たちにも教えとこっと」
は聞かれてまずい会話をしたとは思っていないが、望美たちが内緒にしておきたかったことは分かっていた。
だから全部聞かれているよ、と教えてあげようと思ったのだ。
が、九朗、将臣を中心に必死に止められる。
真っ赤になってに近づいてくる九朗と将臣に思わず後ずさりかけるが、それは叶わなかった。
ガシッと肩をわしづかみにされ、固定される。
軽い痛みに眉をしかめるが、それさえも彼らには届いていない。
「やめろ!頼むから、黙っておいてくれ!」
「望美たちに言うほどのことでもねぇって。あ、そうだこれやるから。な?」
「…たいしたことじゃないなら言ってもいいと思うのに…」
なんとなく納得できない部分もあったが、そこまで言われてしまうといってはいけない気もする。
あまりにも必死なので、別にお菓子が欲しかったわけでもないが(そもそも今から夕飯が待っている)将臣の懐からでてきたお菓子を受け取り、それを自分の懐にしまう。
それをみてほっとした将臣はもう一度、秘密だからな、と言い聞かせた。
「別にいいけど。それより、九朗、肩はなして。」
騒ぐほどではないが、地味にじわじわと広がる痛みがある。
それを伝えるとようやく気づいた彼はあわてて謝りながら手を離した。
そのとき丁度望美と朔が出てきた。
なんとかぎりぎり口止めに成功した男性陣はほっと息をはいたのだが、それをしらない二人は異様な雰囲気に首をかしげる。
「何かあったの…?」
「いや、何もねぇよ。それより宿もどろうぜ」
あはは、と苦笑いを浮かべながらごまかす一同。
これから皆に更なる衝撃が待っているとは、だれも知る由もなかった。