ザクッ・・・
夏侯惇は、地面に突き刺さったその剣を引き抜くと、そのままに背を向けた。
「・・・なんで・・?」
歩きだそうとした彼を止めたのは弱弱しいの声。
驚愕の表情で夏侯惇を見つめる彼女に、新しい傷はなかった。
かわりに長かった黒髪が、肩につかないほど短く切られていた。
彼の剣は、の髪だけを切り取っていた。
「なんで殺さないの?」
「いや・・劉備の娘は死んだ。」
「どういうこと・・・?」
夏侯惇の言葉は意味がわからなかった。
なぜ、自分が生きているのに死んだというのか。
なぜ、髪だけを切り落としたのか。
夏侯惇は振り返らずに答えた。
「髪は女の命だと聞く。なら、その命を奪われたお前は死んだのと同じだ。」
「でも、私生きてるんだよ?」
それはただの言葉遊び。
は今、ここに存在していて、こうして彼と言葉を交わしている。
死んだというのならこの場にいるはいったいなんなんだというのか。
「お前は、劉備の娘ではなくただの。それを、なぜ斬る必要がある?」
「えっ・・?ただの・・?」
「子供は子供らしく、未来を生きればいい。」
そういい残して彼は去っていった。
一度としてこちらを振り返ることなく。
それは、彼が本当にのことをとしてだけ見ているから。
彼ほどの人が、ただの村人を気にかけることはありえないのだから。
彼は今までが背負ってきた劉備の娘という肩書きをあっさり消してしまった。
そんなものはない、ただの人。
という娘。
それは彼女が一番望んでいたものだった。
父の娘であることはうれしかった。
あんなすばらしい父だから、自慢でもあった。
でも、だからこそ重たいものがある。
劉備の名が知られるたびに、はその娘にふさわしい人でいなければならなかった。
だれがそう決めたわけでもない。
けれど、だれもがそう望んでいた。
はそれを知ってしまった。
人々が彼女をみるその瞳から。
何かを期待するようなそれを。
知れば知らない振りはできなかった。
だから、少しでも劉備も娘であれるように必死にがんばって。
武をみがき、知を覚えた。
辛いことがあった。
悲しいことがあった。
でもそれを誰にも打ち明けることもできなかった。
一人でそっと溜め込んで溜め込んで・・・
いつしか我慢していた涙もひっこんだ。
泣くということを忘れた。
そうでなければ今を全うすることもできなかったから。
誰かに気がついて欲しい。
でも誰にも気がついて欲しくない。
気が付けば全てが変わる。
変化が無性に怖かった。
変わってしまえば戻れない。
もしも悪い風に変わってしまったら?
変わりたい。
でも変わりたくない。
悩んで苦しんで考えた。
終わりのなかった答え。
真っ暗な巨大迷路に迷い込んだみたいだった。
一度立ち止まったら動けなくなった。
そこに、彼が光をくれた。
明るくなった迷路は、彼女が思っていたほど大きくなくて、足は自然と動いていた。
の頬に滴が伝って、零れ落ちた。
地面に紅ではない色がしみこんだ。
それはずっとが流せなかったもの。
ひさびさにうまれしその涙は、紅く染まった彼女の紅を薄めた。
戦場に一人の少女がいた。
風はその少女を優しく包み込んで、
ただ、ただ見守った。
もういちど彼女が立ち上がるその時まで。
ずっと彼女と共に・・・
