「なぜだ!?」
総大将が無事に戻ってきた喜びにくれている本陣。
その中で異彩をはなつ怒鳴り声がひびいた。
「なぜ援軍を送れないなどと言うのだ!」
「劉備殿・・・落ち着いてください。今の状況で敵軍の真っ只中に兵を送るわけにはいきません。」
周りの兵たちが、めずらしい劉備の怒りに遠巻きにして見ている中で、一人落ち着いて彼に対応するものがいた。
軍師、諸葛亮だ。
諸葛亮はいつもどおりの穏やかな調子で彼をいさめた。
けれど、それは劉備の怒りを増長させただけだった。
「見捨てろというのか!?」
「はい。彼女一人の為に危険を犯すわけにはいきません。」
「と約束したのだ。援軍を呼んでくると・・私に約束を破り、あげく娘を見捨てる最低な父親になれというのか!」
「姫とてその約束が形だけとわかっておりますよ。彼女は貴方を守るために犠牲となる覚悟を決めているのでしょう。」
劉備とて分かってはいるのだ。
が自分の為にああ言ったのだということを。
この軍を優先して考えれば自分が生き残ることが最優先で、あの時ああすることが最善だったのだということも。
彼女がああやってうそを言わねば自分はここに戻ってくることはできなかっただろう。
あの怪我で平気なはずはない。
けれど、大丈夫だと、逃げるのではなく助けを呼んで来いと、そういってくれた。
もしもその言葉がなければ、いつまでもあそこにとどまり続けた。
そうして今頃は二人そろってこの地に果てていただろう。
分かってはいるのだ。
頭では理解している。
けれど、心が納得してくれない。
そうすることを許せない。
「孔明「あなたは、これからこの民たちを率いていかねばならぬのでしょう。人々の上に立ち、今の世を変えると、そう私に申したではないですか。あれは偽りですか?貴方の勝手で、いまこの場にいる人々を、生きているかも分からぬ彼女の為に犠牲になさるおつもりですか」
劉備は何もいえなかった。
一人の為にたくさんの人々が犠牲になる・・・
民たちが安心して暮らせる世にしたいと立ち上がったというのに、その民を不用意に失わせては本末転倒ではないか。
助けにいったとて生きているかも分からぬ娘。
助けたかった。
あの子が自分を守ってくれたように、今度は守ってあげたかった。
けれど・・・
自分の望みの為に、守りたいものが守れない。
進めば進むほど身近なものが零れ落ちる。
本当に大切なものはいったい何なんだろう・・・
大衆の望む世を作ることか
こうして逃げ延びることか
名も知らぬ民と歩くことか
本当は、本当は・・・・・
一番守りたかったもの。
大切だったもの。
いまさら気づいたとてもう遅い。
大切なものはすでに零れ落ちた後。
残るは虚しいまでの大望・・・
「もう、戻れぬか・・・」
劉備の小さな言葉に、諸葛亮は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと首を縦に振った。
それを眼に留めてから劉備はゆっくりとまぶたを閉じた。
との思い出。
いろいろあった。
楽しいことも、辛かったことも。
けれど、その時間はとても幸せだった。
もう、増えることがない思い出。
もう、二度と訪れぬあの時。
少しだけ、そんな幸せな時間に浸った。
その顔はただの父親。
けれど、次にまぶたをあげたときには総大将たるものにかわっていた。
そして、一言だけずっと黙っていた彼に言った。
「このまま進む。無事に逃げ延びよう」
劉備のほおがうっすらとぬれていた。
諸葛亮はだまってうなずいた。
身近にありすぎて忘れていたもの。
一番守らなければいけなかったものなのに。
無くなって初めてその大切さに気がついた。
もう戻らぬ時間。
それはいつまでも彼をさいなむけれど・・・
けれどそれは、次は間違えぬようにと
暗闇にともる小さな灯りのように、
彼を導く光になる。
どうか、もう二度と間違わぬように。
無くしたものに誓った。
